Đề thi JLPT N1 07/2017

1. 1 以下は、ある企業がホームページに掲載したお知らせである。

関川薬品工業株式会社 > お知らせ

2017.06.01

重要なお知らせ

すでにお知らせしておりますとおり、西山営業所は5月31日(水)より移転先にて業務を再開しております。しかしながら、移転作業時にファクス機に故障が生じ、本日(6月1日)現在もファクスの送受信ができません。

復旧までは下記の電話もしくはメールをご利用ください。なお、ファクス機が復旧し次第、こちらのホームページ上でお知らせいたします。

関係者の皆様には大変ご迷惑をお掛けし申し訳ございませんが、何卒よろしくお願いいたします。

電話番号:020-428-4319
Eメール:info@sekikawa.com

西山営業所について、このお知らせで最も伝えたいことは何か。

 
 
 
 

2. 以下は、動物園の飼育環境について書かれたものである。

動物たちにとって飼育係は大事な環境要因である。展示場としての環境の改善だけでは、動物たちの飼育環境の真の改善にはならない。日々動物と接触する飼育係は、時として動物たちのストレス源になることがある。飼育係がストレス源にならないためには動物をよく観察し、行動にあわせた世話をし、その動物の種としての特徴、個体としての性格を知らなければならない。

(小宮輝之『物語上野動物園の歴史』による

筆者の考えに合うのはどれか。

 
 
 
 

3.

人と人とのコミュニケーションが希薄化していると言われる今日、それを如何に円滑に、如何に真意を外さずに行うかは、誰にとっても大きな課題だ。

時に人は「力」によって他者を動かそうとする。あるいは「経済力」が人を動かす手段ともなる。企業という組織では、「役職=ポジション」を使って人を動かすケースも多い。

だがそういった「上意下達」(注1)「弱肉強食」のコミュニケーションでは、人は本質的な満足は得られない。人が人である所以(注2)は、力対力の拮抗ではなく、他者との「共感」によって「動く」「動かす」ことができる点にある。

(佐渡裕・辻秀一『感じて動く』による)

(注1)上意下達:上に立つ者の考えや命令を下位の者へ伝えること
(注2)所以:理由

1 筆者の考えに合うのはどれか。

 
 
 
 

4. 人間には、道具をつくり、その道具に適応しようとする性質がある。そしてその道具に適応し過ぎてしまうことで、本来の人間の能力を削がれて(注1)しまうことがある。その適応力が仇(注2)となり、人間がつくった道具により人間が左右される。まるで、人間がつくった道具に人間がつくられてしまうかのように。歩きながらでもスマートフォン(注3)を使いたいという欲求にかられ、挙げ句に視野を大きくそこへ奪われ、自ら、そして他者をも危険な状況に追い込んでしまう。これもその現象のひとつだ。

(小川和也『デジタルは人間を奪うのか』による)

(注1)削ぐ:削る
(注2)仇:ここでは、害
(注3)スマートフォン:パソコンの機能もある携帯電話

その現象とはどのような現象のことか。

 
 
 
 

5. Bài đọc vừa  1:

よく知っている人を相手に自己を語るのは簡単だが、お互いによく知らない相手に自己を語るというのは非常に難しい。

よく知っている相手との間に共通の文脈ができあがっているので、その文脈にふさわしい自分を提示していけばよいから、ほぼ自動化した形で自己を語ることができる。たとえば、相手がこちらのことを勇ましい豪傑(注1)とみなしているなら、自分の中の武勇伝(注2)的なエピソードを中心に語ることになるだろうし、相手がこちらのことを温厚な紳士とみなしているなら、自分の中のおだやかな部分を中心に語ることになるだろう。相手との文脈によって語り分けるからといって、けっしてだましているわけではない。どちらも嘘ではないのだ。

困るのは、よく知らない人が相手である場合だ。共通の文脈ができあがっていないため、どのような自分を語り出していけばよいのかがわからない。逆に言えば、共通の文脈による制約がないぶん、どんな自分でも自由に演出し、語り出していくことができる。だからこそ、迷い、悩んでしまうのだ。こうした事情からわかるのは、僕たちは自分のことをいろんなふうに語ることができるということだ。
(中略)
自分の姿がおぼろげ(注3)にしか見えないうちから、まずは語ることを始めなければならない。語ることによって、自分の姿が語りの方向につくられていく。

(榎木博明『(ほんとうの自分)のつくり方—-自己物語の心理学』による)

(注1)豪傑:勇気のある、強い人
(注2)武勇伝的な:ここでは、勇ましい
(注3)おぼろげに:ぼんやりと

1 嘘ではないとあるが、何が嘘ではないのか。

 
 
 
 

6. 2 よく知らない相手に自分を語るのは、なぜ難しいのか。

 

 
 
 
 

7. 3 筆者の考えを最もよく表しているものはどれか。

 
 
 
 

8. Bài đọc vừa 2:

ウェブ時代に突入して、私たちの生活には、世界中のありとあらゆる情報が溢れかえることとなった。その量は膨大で、しかも、時間とともに流れ去ることもなく、データとして刻々と蓄えられ続けている。一方で、私たちの毎日はといえば、相も変わらず24時間しかなく、寿命は80年程度だ。どうやったって、そのすべてを網羅することなどできない。

私たちは、仕方なく、どんな情報とも、どんな言葉とも、忙しなく(注1)、広く浅いつきあいをするようになって、ふと我に返ると、自分は果たして、本当に、以前よりも、世間や人間に対する理解が深くなっているのだろうかと、不安を感じるようになっている。

そういう時代に、小説は、まさしく「小さく説く」のである。この広大無辺(注2)で、複雑極まりない世の中を、そして、そこに生きる人間の心の奥底を、誰の手のひらにでも収まるほどのコンパクトなサイズに圧縮して、濃密な時間とともに体験させてくれる。それが、小説だ。

確かに小説は、絵や彫刻のように、一目で見ることのできる物体ではない。ある一定量の記号の連なりである以上、時間をかけて、前から順番に最後まで辿っていかなければならない。しかし、その間、小説は絶えず、読者に語りかけ、読者に耳を貸し、読者の手を引き、読者と一緒に感じ、一緒に考える。それは、途方(注3)に暮れるような情報の海を泳ぎ回るのとは、まったく別の興奮を与えてくれるはずだ。

(平野啓一郎『小説の読み方—感想が語れる着眼点』による)

(注1)忙しなく:ここでは、時間に追い立てられるように
(注2)広大無辺で:限りなく広くて
(注3)途方に暮れる:どうしたらよいかわからなくなる

1 筆者によると、ウェブ時代に生きる人々が感じている不安とはどのようなものか。

 
 
 
 

9. 2 小説は「小さく説く」とあるが、どういう意味か。

 
 
 
 

10. 3 ウェブ時代に小説を読むことについて、筆者はどのように考えているか。

 
 
 
 

11.

一日に八時間眠るのが人間社会の決まりごとであるかのように言う人がいる。それには何か特別な根拠があるのか。もともと睡眠は、適応のための技術である。さまざまな身体内部および外部の環境条件に合わせて、脳をうまく休息させ、よりよく活動させるための柔軟な生存戦略である。多少の無理や融通が利かないはずはない。

しかも、眠ることは筋肉を緩ませる、意識レベルを下げる、栄養補給を断つなどの危険を伴う「命懸け」の行為だ。それだけに、睡眠中の安全が確保できる条件を整えてからでないと、眠るわけにいかないというのが生き物の鉄則だ。また、優先してなすべきことがほかにあるから、睡眠は、すなおに順位をそちらに譲るのが通例だ。

そうなると、安心して睡眠に割り当てられる時間は、かなりかぎられたものになってしまう。一日のうちのかぎられた条件と時間のもとでうまく眠り、うまく目覚めるために、高等動物は進化の過程でさまざまな方式を開発してきた。だから、睡眠は本来多様性に富むものだ。

人間の睡眠も、生物学的にはまったく同様の適応力を備えている。しかし、人間は文明の発達とともに、睡眠を人為的な規則で拘束した。社会活動や季節変化などをもとにして、睡眠の持つ多様性を一定の枠の中に押し込めてしまったのだ。

こうして、世の中では、大人は一日に八時間まとめて寝るのが基準であるかのように考える傾向が定着した。ここから、睡眠時間の負債を気にするという不幸が発生したのだ。一日に八時間くらい寝床の中で過ごす人が大半を占めるにせよ、この数値に生物学的な根拠はない。

(井上昌次郎『睡眠の技術――今日からぐっすり眠れる本』による)

1 生き物にとっての睡眠について、筆者はどのように述べているか。

 
 
 
 

12. 睡眠を人為的な規則で拘束したとあるが、どういうことか。

 
 
 
 

13. 3 この文章で筆者が最も言いたいことは何か。

 
 
 
 

14.

Bài đọc dài

最寄り駅へと向かう途中、骨董屋さんの前を通る。

その店が越して来たのは十年ほど前だろうか。はっきりした記憶はないのだが、夫のひとことで興味を持った。「毎日どんどん売れる商売じゃないだろうけど、それにしても客が入っているのを見たことないよね」という。確かにいつもひっそりと、主とおぼしき人は店の奥にじっと座っているばかり。宅配便の梱包された包みがたくさん置かれていることから、ネット販売専門の店なのだろうか。夫はその後も①不思議がっていた

それから一年ほどして、ふいに謎が解けた。

面識はないが、時おり読んでいた同世代の女性のブログ(注1)にこの店を訪ねた話が載っていた。壊れてしまった陶器の修理を頼みに行ったというのである。漆(注2)を使った金継ぎ、銀継ぎと呼ばれる手法で損なわれた部分を修復するのだが、その仕上がりは疵跡ではなく、景色に見立てることができるほど美しい。

思いがけない近所にそんな専門の工房(注3)があったとは。新鮮な驚きとともに、②ひと筋の光が射し込んで来る思いがした。我が家にも欠けたからといって捨てられず、破片をそっと薄紙に包んだままにしているものがある。祖母が求め、そして壊してしまった十客揃いの小鉢(注4)のひとつ。義父が好んで使っていたという杯。これらをもとの形にもどすことができたら、どんなに心和むことだろう。

さっそく店を訪ねてみると、「やあ、いらっしゃい」と主はまるでなじみの客のように迎えてくれた。作業の合間に手をゆるめて(注5)いることがあって、店の前の人の行き来を眺めている。「だから近所に住んでいる人のことはなんとなくわかるんです。」見ているのはこちらばかりと思ったら大間違いだ。

すっかり気が楽になって、こちらの事情を打ち明けた。

(中略)

買替えた方が安あがりとわかっているものでも、使いつづけた愛着があって手放せないという人が増えている。一方で、高価な器を使うお料理屋さんが、段ボールいっぱい送りつけてくることもある。「前に修理したものがまた新たに壊れてもどってきたり。時々、どういう扱いをしてるのかなと思うことがありますよ。」

形あるものはいずれは壊れる。この道理があるから、歳月を経て伝えられたものに感謝の念も湧くし、儚さと美しさは同義でもある。うっかり手を滑らせる(注6)瞬間は誰にもあり、取り返しのつかない(注7)事実に直面すると、ため息が出るほど心に重い。

金継ぎはそんな心の痛手までやさしくいたわってくれる伝統の技術だ。もしもの時に助けてくれる人がいると思うと心底有り難い。けれど、だからこそ指先には神経を使ってぞんざいな扱いはすまいと、見事に修復された器を手に思っている。

(青木奈緒『暮しの手帖』2014年10-11月号による)

(注1)ブログ:日記形式のウェブサイト
(注2)漆を使った金継ぎ、銀継ぎと呼ばれる手法:陶器の修理方法の名称
(注3)工房:ここでは、仕事場
(注4)十客揃いの小鉢:十個揃った小さな器
(注5)手をゆるめる:ここでは、休憩する
(注6)手を滑らせる:ここでは、落とす
(注7)取り返しのつかない:元の状態に戻すことのできない

1 ①不思議がっていたとあるが、何を不思議がっていたか。

 
 
 
 

15. 2 ②ひと筋の光が射し込んで来る思いがしたとあるが、なぜか。

 
 
 
 

16. 3 ③すっかり気が楽になってとあるが、なぜか

 
 
 
 

17. 4 この文章で述べられている経験を通して、筆者が強く思ったのはどのようなことか。

 

 
 
 
 

18.

「A」

国際化の進展や新技術の開発などに伴って、新しい概念やニュアンスの提示など、外来語・外国語(注)を使用せざるを得ない面があり、また、既に外来語・外国語を用いた方がその日本語訳よりも分かりやすい場合もある。そうした場合は別として、一般的には、相手や目的に応じて十分な配慮の下に、その外来語や外国語を使用するか否かの判断がなされる必要があろう。外来語・外国語は基本的にその語に対する知識がないと伝達不能になることが多い。そういう意味で、広く国民一般を対象にしている官公庁、新聞・放送等では、簡単に日本語に言い換えられる外来語・外国語や耳慣れない外来語・外国語などは安易に使わないようにすべきである。

(文化庁2015年10月23日取得による)

「B」

「ユーザー」、「ケア」など多くの外来語・外国語が私たちの生活の中にあふれている。

外来語・外国語は意味があいまいなので使用すべきではないという声も多い。しかし、グローバル化する現代では、既存の日本語で置き換えにくい新しい概念や事象を表す上で、外来語・外国語を使うのは仕方がないことだ。

一方、ある調査によると、若い世代は外来語・外国語使用の増加を容認し、使用する割合が高いが、年齢の高い世代ではその割合が低いそうだ。このような違いが、世代間のコミュニケーションの障害になるという心配もある。また、年齢が高くなってから利用機会が多くなる医療や福祉の分野で、外来語・外国語の使用が多いことも問題だ。外来語・外国語を使用する際には、相手が理解できるかどうかを考えることも大切だ。

(注)外来語・外国語:ここでは、片仮名語

1 外来語・外国語の使用が避けられない理由として、AとBが共通して述べていることは何か。

 
 
 
 

19. 2 外来語・外国語のあり方について、AとBはどのように述べているか。

 
 
 
 

20.

Bài đọc dài

私は、科学が再び文化のみに寄与する営みを取り戻すべきと考えている。壁に飾られたピカソの絵のように、なければないで済ませられるが、そこにあれば楽しい、なければ何か心の空白を感じてしまう、そんな「無用の用」としての科学である。世の中に役立とうというような野心を捨て、自然と戯れ(注1)ながら自然の偉大さを学んでいく科学で良いのではないだろうか。好奇心、探求心、美を求める心、想像する力、普通性への憧れ、そのような人間の感性を最大限練磨(注2)して、人間の可能性を拡大する営みのことである。

むろん、経済一辺倒の現代社会では、そんな原初的な科学は許されない。一般に文化の創造には金がかかる。ましてや科学は高価な実験機械やコンピューターを必要とするから一定の投資をしなければならず、そうすれば必ずその分の見返りが要求される。「文化より明日のコメを」という声も絶えることがない。社会もムダと思われるものに金を投ずるのを忌避(注3)するからだ。それが「役に立つ」科学とならねばならない要因で、科学者もセールスマンのように次々に目新しい商品を用意して社会の要求に迎合していかねばならなくなる。それを逆手にとって、あたかも世の中を牛耳(注4)っているかのように尊大に振舞う科学者すら登場するようになった。これほど社会に貢献しているのだから、もっと金をよこせ(注5)というわけである。金を通しての科学者と社会の網引き(注6)状態と言えるだろうか。

それでいいのかと改めて考え直してみる必要がある。確かに科学には金がかかり、それには社会の支持が欠かせない。「無用の用」にすらならないムダも多いだろう。しかし、ときに科学は世界の見方を変える大きな力を秘めている。事実、科学はその力によって自然観や世界観を一変させ、社会のありように大きな変化をもたらしてきた。社会への見返りとは、そのような概念や思想を提供する役目にあるのではないか。それは万に一つくらいの確率であるかもしれないが、科学の営み抜きにしては起こり得ない貢献である。むろん、天才の登場を必要とする場合が多いが、その陰には無数の無名の科学者がいたことを忘れてはならない。それらの積み上げがあってこそ天才も活躍できるのである。

今必要なのは、「文化としての科学」を広く市民に伝えることであり、科学の楽しみを市民とともに共有することである。実際、本当のところ市民は「役に立つ科学」ではなく、「役に立たないけれど知的なスリルを味わえる科学」を求めている。市民も知的冒険をしたいのだ。(中略)科学の行為は科学者という人間の営みだから、そこには数多くのエピソードがあり、成功も失敗もある。それらも一緒に紡ぎ合わせる(注7)ことによって「文化としての科学」が豊かになっていくのではないだろうか。それが結果的に市民に勇気や喜びを与えると信じている。

(池内了『科学の限界』による)

(注1)戯れる:ここでは、触れ合う
(注2)練磨する:鍛えて磨く
(注3)忌避する:嫌って避ける
(注4)牛耳る:思い通りに動かす
(注5)よこせ:くれ
(注6)網引き状態:ここでは、引っ張り合い状態
(注7)紡ぎ合わせる:ここでは、組み合わせる

筆者によると、原初的な科学とはどういうものか。

 
 
 
 

21. 2 それでいいのかと改めて考え直してみる必要があるとあるが、筆者は何を考え直してみる必要があると述べているか。

 
 
 
 

22. 3 筆者は科学が社会にどのような貢献をしてきたと考えているか。

 
 
 
 

23. 4 筆者が言いたいことは何か。

 
 
 
 

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Tác giả: Admin

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